2019年10月1日火曜日

2019年10月の聖句


聖 句

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされています。」
   (コリントの信徒への第二の手紙416節)
 

 

         戸畑天使園 園長 江夏國彦

 
 9月の第3月曜日は敬老の日と定められています。毎年9月に祖父母さまを迎えて、保育参観と聖堂での神様の祝福式を行います。今年も大勢お迎えすることができました。

 後期高齢を過ぎたあるお爺さんが、散歩がてらに久しぶりに、賑わうあるデパートへ行きました。すると一階の案内嬢のところで一人の若い父親が、妻に買い物を頼まれたらしく、忙しそうに聞いていた。「赤ちゃん売り場ってどこですか。」聞かれたほうも「ハイ七階にございまーす」と機械的に答えていた。それをたまたまそばで聞いていたお爺さんが「最近のデパートは赤ちゃんまで売っているんだ。」と呟いた。ベビー用品売り場で何を買い求めたのか知らないが、これは笑い話である。

お爺さんは、きっと自分にも子育て真っ最中で忙しく働いていた若い頃があったことが思い出されて微笑ましく感じたことでしょう。

 どんなに忙しい毎日を送っている身であっても、身近にいるお年寄りへの配慮を忘れないようにしましょう。いつも温かい心で見守っていてくれるのですから。次の作者不詳の文章が老人の思いを理解するのに役立つかもしれません。


   <老人の思いと願い>

老人の耳は、人の言葉を聞きとるため大きな努力が必要であることをわかってくれる人は幸いです。

老人の目はうすくなり、行動はのろいということを善意のうちにわかってくれる人は幸いです。

しばらく立ちどまって明るくほほえみながらおしゃべりしてくれる人は幸いです。

「今日はその話を二度もききましたよ。」と決して言わない人は幸いです。

愛されており、ひとりぼっちでないことを教えてくれる人は幸いです。

老人には十字架を担う力がないことをわかってくれる人は幸いです。

愛情深く、人生の最後の旅路の日々をなぐさめてくれる人は幸いです。

 

2019年9月1日日曜日

2019年09月の聖句


    聖 句

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコによる福音書227節)

      戸畑天使園 園長 江夏國彦

  キリストが、中風で長年苦しんでいた人を癒されたときの言葉である。近くにいた律法学者たちが「安息日に人の病をいやすことは律法で許されていない」と主張し、病の苦しみから解放してあげること(人権)より、律法を守ることが大切であると考えていた律法学者たちに対しての言葉です。

  40年近く前の話ですが、私がまだ司祭になって間もないころ、群馬県のカトリック渋川教会を担当したことがありました。そして群馬県の草津にあるハンセン病者のための療養施設「栗生楽泉園」の中にあるカトリック草津教会にも渋川から巡回ミサに出かけていました。司牧の仕事で元患者の皆さんと親しくさせていただきましたが、その頃の私は、彼らとその家族の最も大きな苦しみとなっている差別の問題については、見えていなかったのです。国の隔離政策の本質に気付かず人権の視点から彼らと向き合っていなかったのです。当時の私は何とも人権意識の薄い者でした。この観点から交わり、その苦しみからの解放のために何の積極的な働きもしてこなかったことを恥じています。まさに、私は不作為のそしりを免れない者です。

 昭和4年に始まった「無らい県運動」は、犯人探しのようにしらみつぶしに患者を見つけ出しては各地の療養所に送り込んだのです。また職員の裁量によって一方的に患者を収監する特別病室(重監房)が栗生楽泉園には設けられたのです。結婚する際には、断種の手術が強制され、子供をさずかった場合は、堕胎させられ、その胎児はホルマリン漬けの標本にまでされました。まさに人を人として認めない、人権蹂躙の撲滅政策であったと言えます。昭和18年特効薬プロミンが開発され、ハンセン病は治る病気となり、平成8年、らい予防法が廃止されてからも、差別と偏見は続きました。平成10年、熊本地裁に「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が元患者たちからおこされました。平成13年原告勝訴の判決が下り、ようやく人権回復が実現したのでした。
    

 さらに今年の79日、安倍晋三首相は、国が続けたハンセン病患者の隔離政策によって家族も差別を受けたとして家族らが国に損害賠償を求めた訴訟で、国の責任を認め、償を命じた熊本地裁判決を受け入れ、控訴しないと表明しました。元患者の家族を巡り、国の立法不作為や対策義務違反を認めたのです。

 そして710日、日本カトリック司教協議会は、ハンセン病者に関して「謝罪」を行った。その謝罪声明文の中に「ハンセン病回復者の皆様と家族の皆様、そしてすでに天に召された方々に対して当事者たちの当然の権利を守る視点に立てなかった責任を認め、謝罪いたします。」とある。

 差別の問題は、いつの時代も、どんなところにも存在する問題であり、その本質を見極めるには、相手の立場に立つこと、特に人権の視点を忘れてはならないのだとあらためて感じさせられた。



 

2019年7月1日月曜日

2019年07月の聖句


聖 句

「彼は叫ばず、声を上げず、巷に自分の声を聞かせない。折れた葦を彼は断ち切らず、くすぶる灯心を消さず、まことに、彼は正しい法を輝かせる。」(旧約聖書 イザヤ書422-3節)
 
   戸畑天使園 園長  江夏国彦 神父


 暑さの厳しい夏がやってきました。日頃から体調に留意してこの暑さを乗り切りたいものです。

 哲学者であり、数学者であったパスカルは「神は存在する」のか、それとも「存在しない」のか、どちらに賭けたほうが得なのか数学的で、打算的な考え方で論じた「パスカルの賭け」という話があります。神の存在を確率で思い巡らしたことは、いかにも数学者として面目躍如たるものが有ります。
 
 

 思索に満ちた彼の作品、『パンセ』という著書の中で「人間は考える葦である」と述べたことはあまりにも有名です。人間は折れやすい葦にすぎない。極めて弱い存在です。しかし、それは考えることができる葦であるとパスカルは述べたのです。人間は弱いものでありながらも神学者や哲学者のように、この世を越える次元にまで及ぶ世界を思索する能力があるのです。折れやすくか弱い葦は、人間の弱さを象徴するにふさわしいものです。

 人間の悲惨とキリストによる救いは『パンセ』の中心テーマの一つでした。人間が、どんなに悲惨な状況にあろうとも、「彼(メシア)は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(マタイ12:20)とあります。キリストは、弱さを身に帯びた罪深い人間を決して見捨てることのない贖い主であり、救い主であると聖書は記しているのです。
 

2019年6月4日火曜日

2019年06月の聖句


聖 句

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」

(新約聖書 コリントの信徒への第二の手紙 110節)
 
            
    戸畑天使園 園長   江夏国彦 神父



 新緑の美しい季節になりました。公園に出かけたり、山に山菜採りに行く機会があるかもしれません。もしかしたら山で突然、猪に出くわすかもしれませんね。

「クマさんの食前の祈り」という笑い話があります。ある人が森の中でクマとバッタリ出会ってしまいました。こんな場合すぐ逃げないで、クマから目を離なさないほうが良いと聞いていたので、その人はクマの目をじっとにらみつけていました。すると、クマはうつむいて、目をつむってしまいました。安心して見ていると、しばらくしてからクマは再び頭を上げて言いました。「最期の祈りは済んだかい?こっちの食前の祈りは終わったぞ。」
 
 

何が起こるかわからない危険に満ちた世界、変化が早くて錯覚に陥りやすい世界、将来の見通しが立たない世界。私たちは今、そういう世界に生きているのです。どうしたら動揺したり、不安をつのらせたりすることなく生きて行けるのでしょうか。きのうも、今日も、そしてこれからも変わらない永遠の愛と命をもっておられる神に希望を掛けて生きる人は幸いです。

2019年5月3日金曜日

2019年05月の聖句


聖 句

「シオンは言う。主(神)は私を見捨てられた。私の主は私を忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。」(旧約聖書イザヤ書49:14-15節)

 
         戸畑天使園 園長  江夏国彦 神父

 聖母月を迎えました。五月はなんと自然が美しいことでしょう。大地はあらゆるものの命を育みます。それ故、母なる大地と私たちは呼びます。命を精一杯生きているものは、輝いています。喜びが満ち溢れています。だから教会では五月は聖母マリアに捧げられた月とされています。命を育む業に参与することは美しく、なんと尊いことでしょう。特に母となった体験を持つ女性にとっては、身に沁みて感じておられることでしょう。何故なら神の創造の業に直接かかわり、協力する体験をしたのですから。

                       カトリック戸畑教会のルルドの聖母マリア

  ある女性が、初めて母になった時の喜びを川柳に託して次のように詠みました。「私でも ママになれたよ ありがとう」身ごもって十ヶ月、母子ともども元気で出産できるのか、出産してもその子の母親として務まるのか心配な日々を過ごしたのでしょう。そんな母親の不安をよそに元気な赤ちゃんが生まれて、産まれた子にも、授けてくださった神さまにも感謝したい気持ちが「ありがとう」という言葉になったのでしょう。母親になった喜びと、いただいた命を大切に育てようという意気込み、そして明るい希望が感じられます。普通に交わされる平易な言葉を七五調にすると、こんなにも読む人の想像を掻き立てる文章になるのですから不思議です。
 
 どんな親も自分の子の成長した姿を夢見ます。しかし、愛するがゆえに、自分の夢を子供に押し付けるのではなく、我が子に神から授かった使命に生きる人間になるようにと願うべきだと思います。
 


 

2019年4月2日火曜日

2019年04月の聖句

                  聖 句

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34節)

 
        園長  江夏国彦 神父

 桜咲く春のうららかな日に、嬉々として新園児たちが登園してくる姿を見るのは、幼児教育に携わる者に取って、最も希望に満ちた喜ばしい光景です。

 しかし昨年度は全国各地で、児童虐待による痛ましい事件が多く報じられました。千葉県での事件ですが、長年に渡って両親から暴力を受けて亡くなった栗原心愛(みあ)ちゃんはアンケートに「お父さんにぼう力を受けています。先生、どうにかできませんか」と回答していました。お家では、毎日地獄のような日々、学校では幸せな他の子どもたちが羨ましい日々であったろうと思います。


 その心愛ちゃんが、通学途中で「とても寒いね」と話してきた友達を温めてあげようと、何日もかけて毛糸のマフラーを編み「頑張って編んだんだから使ってね」と優しくプレゼントしたのです。小学2年生のときの話です。

 死に至らしめる逆境の中にあっても純粋で、美しい心で人を愛することができることに感動しました。心愛ちゃんは、その名の通り純粋な愛の心を持った女の子だったのでしょう。こんなに愛らしい子を失ったことは泣けてきてしかたがありません。

 人は環境や教育によって、氷のように冷たくも、暖炉のように暖かくもなるもの。それだけに、これからも保護者と連携して幼児教育に精一杯力を注いでゆきたいと思っています。

 

2019年3月23日土曜日

2019年03月の聖句

                   聖 句

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:3-4節)
 
         園長 江夏国彦 神父

 梅の花の香りが、春の風に乗って漂う季節が巡ってきました。厳しい冬を通り越さなければ、うららかな春が来ないように、私たちの人生の歩みも、苦労の多い子育ても、長い忍耐と苦しみを通り越さなければ、魂の底から溢れる喜びは訪れないのです。今の美しい季節は私たちに、ただ空しく苦しみを耐えているのではないことを教えてくれているかのようです。

 何年か前に秋川雅史が歌って、多くの人に知られるようになった「千の風になって」の曲は、大学生時代に学生寮で共に過ごした私の友人、新井 氏が作者不詳の詩を探し出して日本語に翻訳し、曲をつけて彼の親友に送った作品です。新井氏の幼友達の妻が急逝し、悲しみのどん底にあった彼を慰めようと、芥川賞受賞作家であると同時にシンガーソングライターでもある新井氏が自ら歌ってCDにして贈ったのです。いまだに多くの人々に感動を与え、歌い継がれています。

 愛する者を失った人にとって、その愛する人の面影は消えるものではありません。生前と違って、いつでもどこでも傍にいてくれるような気がします。生前の思い出が走馬灯のように思い巡らされ、いとおしさ、せつなさに浸るときその人の存在がいかに大きかったか思い知らされます。そして命の尊さをあらためて感じるのです。人は命を与えられ、生かされ、そして人の世話を受けながら生き、人の手によって葬られてゆくのです。「千の風になって」の歌は、悲しみの中にある者を「私のお墓の前で、泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」と今やいつもあなたと共にいるよ、さあ、新たな出発をするようにと促すのです。

 愛し合う二人がたとえ幸せの絶頂にいたとしても、ある瞬間人は別れの日を予感するものです。この世でのどんな幸せにも終りがあり、いつか別れの日が来ることを知っているからです。それまでにどれほど真実に愛し合って生きてきたかの程度に応じて、別れも素晴らしいものになるのです。しかも死後の世界を信じる者にとっては、たとえ別れても希望を持って新たな出発を力強く踏み出せるのです。